この2年間、徳正寺の六角堂(納骨堂)から発見された、わたしの大伯母 井上正子の書いた六冊の日記をコツコツと翻刻し、一冊にまとめようと、これまた毎日コツコツと日記を書くように、編纂につとめている。
日記の刊行は近いが、まだ作業はひと山もふた山もある。ゆっくりと急いではいるのだが。
六冊の日記は、井上正子(結婚して野田正子/1906-1998年)が、京都市立高等女学校(現 京都市立堀川高等学校/1918年〈大正7〉4月本科入学-1922年〈大正11〉3月同科卒業)、京都府立第一高等女学校(現 京都府立鴨沂高等学校/1922年〈大正11〉4月入学-1923年〈大正12〉3月本科卒業)の二学校に在籍した、1918年5月1日から1922年9月24日までの五年間、断続してつけられていたものである。彼女が12歳から16歳にかけて、現在の学齢で言えば中学1年から高校2年生までの日記だ。
現在、編集・組版は日記の6冊目にさしかかり、組版しながら、編集作業している日付が百年前の今日と同時進行するようになりだしている。
これまで百年前の今日の記述が気になって、当該箇所の日記を読むことはあった。が、なにか未来を先回りして知ってしまうような気後れがしてしまうのだった。しかし、今は目の前の日記が百年前の今日とシンクロしている。
何でもない一日が、百年前の今日、井上正子の身に起こったと思うことで、臨場感がまるで違うのだ。百年前の今日の日付を過ぎてしまうと、この一日は過去のものになって、急速に遠ざかってしまうようにさえ思える(彗星の接近と離反のように)。
この臨場感を、いま私一人だけ味わっていて良いのだろうか、という気持ちが兆す。
日記はいずれ刊行され、誰もが読むことができるものになるだろう。
しかし、今日の読者は、井上正子と同じ目線で、今日という日を振り返ることができる。このような読書体験は、2度と巡ってはこない。
百年という時間を特別なものに考え過ぎている気もしないではないが、「百年前の今日」には重みがある。
そして、百年後の今日も、〝いまここ〟を感じながら、井上正子の日記を読む人がいてくれることを願ってやまない。
1922年(大正11)5月20日
五月二十日 土曜日 晴 起床六時 就眠十時
五拾年の長い年月を一歩一歩と歩み来たつた学校の名誉と喜悦の幕はいよいよ今日の此の日を切つて落とされた。
それと同時に私等の憧れ待つてゐたこの紀念日、記念事業の第一歩に踏み入れたのであつた。
清新な御所の緑より来る空気の中に巍然と立つた校門の中に入る多くの乙女の群れには、どの顔もすべてが生々と誇りと喜びとに満たされ真青な空に東山の明るい輝かしい太陽の光の中に動いてるのであつた。
午前九時と云ふに、フロツクや羽織袴にいかめしい来賓、美しく着かざつた卒業生の方々のためにぎつしりつまつた講堂には、いよいよ第一部の式は君が代の声と共に始まつたのである。
賀陽宮妃殿下、久邇宮智子女王殿下の御来臨の厳粛な式は一つ一つと進むのであつた。
過去五十年を物語るこの祝ひの式に厳粛でなくてなんであらう。
又それに参列する事の出来た私等が幸福でなくてなんであらう。
それに私は、他の方よりも一層にこの祝日に会ふ事が出来たと云ふ幸運を感じねばと思ふのであつた。
我が国で最初に第一番に産声を上げた我が学校に幾多の立派な人を作り上げ、或は事業をした事は云ふまでもなく貴い歴史である。
二十年十年の勤続者、色々の方面に於いての功労者に対しての表彰、祝辞等の行はれて、式は十一時半頃に終はりをつげたのである。
第二部の式が引き続きあつたが第一部に列席した私等は出なかつた。
午後はお待ちかねのヒヤワサ・狂言・曲芸・園遊会が開かれた。
ヒヤワサは高等科二年のイングリツシユ・ドラマであるが、皆中々熟練した英語と動作であつた。土人の中、美しいローマンスであるので、多くの土人風のニンフ等が出演するが、中々衣裳も工夫をこらしたもので、流石亜米利加人ベストさんの御工夫とうなづかれた。
園遊会は中庭のコーヒ店が一等賑つてるらしかつた。
みたらしや関東煮の立喰ひ姿も中々見物だつた。
ギンの可愛い可愛いメダルを胸に大切さうに下げて夏蜜柑バナナの袋をかかへて狂言・軽技を見るのだつた。
高松のおば様にお目にかかつたので、此の間から機会がなかつた宮様へのおじぎをする。
お屋敷へ上つて御一緒にトランプをのお相手をしたり、日暮へ御招待して今日の様に千五郎の狂言をお目にかけてから大分に長い間お目にかゝらなかつたのでだつたが高松の小母様が〝正子でございます〟と申し上げると何時もの様にやさしいほゝゑみに正子を御覧になつた。素様も丁度御一緒で素様から町尻さんのお嬢さんを御紹介していただいた。
暫らく小母様のお話を伺つて失礼する。
全部今日の事を終へ満足しながら帰宅したのは五時頃だつた。
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