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報恩講の法話

更新日:2021年10月25日

濁世の起悪造罪は

 暴風駛雨にことならず

 諸仏これらをあはれみて

 すすめて浄土に帰せしめり

親鸞聖人御和讃 道綽禅師讃 五



この世に蔓延(はびこ)る罪悪は、突如として起こる暴風雨みたいなもので、ごく自然な出来事なのでしょう。諸仏は、自然の摂理をともなう業深きわれわれ人間の営為をいつも憐れんでおいでで、だから勧んで弥陀の浄土へとお導きになるです。

親鸞聖人御和讃 道綽禅師への讃 五(拙訳)




 今朝、おあさじで道綽(どうしゃく)禅師の右の御和讃が巡って参りました。意味を追いながら念仏する中で、世の中の起悪造罪による禍(わざわい)が、自然災害となんら異ならないという教えが、昨今ではどうだろう、どうもそれが逆転してしまっているように思えることに虚を突かれたのでした。

 気候変動、大気汚染、プラごみの海洋汚染、核のゴミ、そしてコロナウィルスと列挙すれば切りがない。すべて、この百年のあいだに吹き出した地上の病いです。人間の営みが自然に作用して、自然界を、社会を、世の中を、われわれを翻弄し脅かしている。これは自然法爾(じねんほうに)という「人為を加えず、一切の存在はおのずから真理にかなっていること」(『広辞苑』)が、その枠組みをもう一つ外側、人知の埒外にまで広げなければ、どうも真理に適わなくなっている事態に感じられ、ゆるぎなき自然への依存がもはや喪(うしな)われていることに愕然(がくぜん)としたのでした。しかし、人為が自然を超えるということなどあり得るのだろうかと、またしても疑問が湧いてくる。

「已今当(いこんとう)の往生」とは、過去・現在・未来の三世にわたって往生する者は、この世界の衆生ばかりでなく、十方の仏土から来生(らいしょう/新たな世界に生まれること)するのだと申されます(「讃阿弥陀仏偈和讃 二七」『浄土和讃』)。あなたは世界が「いま」「ここ」「ひとつ」だけだと考えているようだが、そうではない、と教えられたようで、ひと粒の雨滴の中にも仏土は存在していると、親鸞聖人の御和讃には、自身の枠組みを取り払って宇宙の「無量無数不可計(むりょうむしゅふかけ/はかりしれなさ)」なることを教えてくれます。

 と同時、この有限な身体という枠組のなかで人は生死(しょうじ)を繰り返してきた。その繰り返される無限のサイクルが自然を支えてきた。だが、無限と思われてきた自然もまた有限なのだという宣告を、すでに私たちは受け取ってしまったようです。

 加速度的、不可逆的、人為により痛めつけられてきた自然の行く末を案じつつ、過去から未来へ一方向に手渡すバトン(現在)はどんどん先細りになっていくようです。手の中のバトンをできるだけ遠くへ届けられるように、諸仏の願いはそこにあるのだと感じられます。

 私たちのゴールなきバトンリレーは、有限な枠組みで営まれつつも、おのずから解放=解脱されて真理にかなうことに繋がるるのではないでしょうか。





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