山国に生まれた正子には、たまらなく海は珍しく思わるのであった。
1922年(大正11)6月8日
六月八日 木曜日 晴 起床四時 就眠九時
朝早くから目が覚めたのを、そっと女中の起きない様に台所へ行って瓦斯ガスに火をつけていたら、ちゃんと女中が起きて来た。もっと寐ねてたら私が何もかもして驚かしてやるのにと独り心の中で女中の早起きをおこるのも遠足の朝。
大元気で二條駅へ行ったのがまだ早いため少数の方であった。
当直であるため、責任感を感じて一、一、気をくばる。
六時三十分の一番列車で楽しい汽車の旅を続ける。
嵐峡の美を見たかと思うと保津川の清い水が見え出す。
種々の奇岩や小さい石の一面に散在している中に流れる水。対岸の山には濃い緑がおおいかぶさる様に水をのぞいてる。赤い可愛い岩つつじはごつごつした岩の間々からちょっちょっと可愛い顔をのぞかせている。
朝の清明な太陽の光線は河の流れに波うっているのだった。
私等は一つ一つに感歎の声を上げて喜ぶのだった。
二時間半の汽車の旅の後、新舞鶴に着いた。
始めて見る軍港に色々の空想を画きながら私達は海の方へ歩み出した。
〝軍艦せんべい〟と大きく書かれた看板を見ると如何にも軍港とうなずける。
〝舞鶴海兵団〟とか書いてある門をくぐって入る。煉瓦造りの兵器倉庫とかの建物を右にして歩む。鬼あざみがところどころ赤紫の様な色に咲いていた。鈴懸の様な青々と透き通る様な緑の木の側を通って行くと、海が見えた。山国に生まれた正子には、たまらなく海は珍しく思わるのであった。
兵舎で昼飯をすましてランチ[連絡用の小艇]を待つ間、如何にも軍人タイプの方のお話を聞く。随分不自然と思われる位、軍国主義をおっしゃった。
暫くの後私は香取の甲板に立っていた。
幾組かに分かれた私達はいよいよ案内された。
私が第一にその甲板で感じた事は、非常に床の美しい事だ。みがいてみがいてみがききつてある床。私は驚いて、随分きれいだと云えば〝毎朝砂で拭くのですよ〟と水兵さんが教えて下さる。
どこをどう云ってるのか知らないけれど、私はいろんなものを見た。
三十吋インチ[約76・2㌢]の大砲台が上甲板に四つもある。その操縦から砲弾の運ぶのまで見る。大きないかり、その一つ一つの鎖すら私達の手には支えられないと云ういかりを自由に上げ下ろしをする器械の説明を聞く。
中甲板も下甲板も皆幾つからの部屋に細かく分けられてある。そしてその区境の戸の大きい事。巾はばが一尺[約30・3㌢]余もある鉄扉に、周囲はゴムではりつめられてある。それは一つの部屋が水が入ったりして傷んでも、他に其の影響をあたえないために、その部屋一つで危難のまぬがる様にとの事である。
ばたばたと畳める様になつている机や椅子の前で、多くの水兵が手に白い箱を持ち出していらっしゃる。一人の方の中を見せて貰えば、日常のいろんな物が入れてあって、しかも美しく整頓してあるには、私は自分の机の中を思い出すのであった。郵便物入れもあれば、炊事場も、服屋さんまであるのに驚く。私達がある一室に入る時、一人の水兵が余念なく毛糸で何かせっせと編んでいらっしゃるのが目につく。私はそのうまい手付きを見て、何だか皮肉な感じがするのであった。
摂政宮殿下の御坐所であったケビン[〈キャビン cabin〉船室]も見せていただく。最も美しいケビンはその隣にあった。
閑院宮殿下やその他士官の公室・私室をも見る。
どの部屋もどの部屋も美しく掃除もしてあるが装飾もしてあった。
一士官の私室を一寸のぞいたが、床しい百合の一輪ざしのあるのがたまらなくいい感じをあたえた。どこもかも一室には必らず二つ以上の鏡のあるのに気がつく。
海軍はやはり外交が大切だから容姿もそれだけたださねばならないのだろうと思った。
すべてをを見終わって満足してランチに下りた私等は両手を上げて〝さよなら〟と感謝の意を表した時、甲板上には多くの水兵が後ろのリボンを潮風にひらひらさしながらにこにこしていらっしった。
再び車上の人となって、京に着いた時、赤い灯はわびしく二条駅にともっているのであった。
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