1922年(大正11)8月2日
八月二日 水曜日 晴 起床五時半 就眠十時半
午後から残った単衣物を仕上げる。
悦ちゃんは今年は昆虫採集の宿題があるとて、この間からやかましく云っていた。今日お庭に白い蝶が来た。
〝お姉さん早く早く取って頂戴ちょうだい〟って散々大声で呼ぶので、何だかたまらなく可哀さうな気がしたけれど従妹が一生懸命に云うので一緒に追いかけまわす。
でもかしこい蝶はなかなか私等の手には取りおおせない。軽く軽くあちらへ逃げ、こちらへ逃げて、私等をさんざん追いかけ廻さした後に〝さよなら〟っ
て、つーいと、私等のお庭から離れて行ってしまった。
午後の夏に私等は汗みどろになって一匹の蝶にこうして戯れたるのだつた。
1922年(大正11)8月3日
八月三日 木曜日 晴 起床五時 就眠十時
久々にて広島の叔父様がいらっしゃる。
見る度に段々肥ふとっていらっしゃる。そしてほんとにお元気そうなおからだ。
でも同時にお会いする毎に、お頭の光のいやますのには驚く。
「伯父さまどうしても安東県の伯父さまより御年老おとしよりの様ですね」
「そんなに見えるか」
「見えるかって、お頭は既に既に 御老人様ですね」
「人の顔さえ見れば禿げ頭ばっかり云うね。お土産をふいにしてやるぞ」
には私も困ってだまる。
夜は母上も御一緒に岡崎のパラダイスに行く。
大勢の人がうぢょうぢょしている。飛行機の形にした乗台が動力で円形を書きながらだんだん高く広くなって行くのを見る。
弟等が乗りたいって云い出す。伯父様にお願いして弟と従妹は大喜びで行く。私も乗りたい気もしたし、はずかしい様な気もするので止める。
弟は身体も強くないし、少し神経質だから後からどうかなりゃしないかと心配していたが、始めの間は面白そうに従妹とにこにこ笑っていたが、随分高く広くなって空気を切るはげしい音まで聞こえだす頃、弟はじっとうつぶせになっている。
こわがってるのですよって母と話す中、十分間の飛行を終わって帰って来た。従妹は嬉しさうににこにこして弟は真青になって…。
僕胸が悪くなったって変な顔していた。
でも暫く瀧の裏を通る様になっているところをきゃっきゃっ云いながら通ったりなんかしている中に直ってしまつた様だった。胃腸の弱い子供だから駄目だ。
〝ほんとのパラダイスがこんなものならみんなクリスチャンは死に切れないわ〟って笑いながら出る時、弟〝僕のパラダイスの最初の印象は悪いものだ
った〟っていかにも哲人ぶって皆を笑わしていた。
岡崎のパラダイス 〈京都パラダイス〉は、「京都疏水慶流橋南詰奥村電機工場」の五千坪を超える跡地(現在の京都市美術館の南側一帯)に一九二二年(大正一一)七月一〇日に開園した一大遊園地(奥村電機商会経営)。園内に造成された築山には七つの井戸から汲み上げた水を集めて、幅一三㍍、高さ約八㍍から落ちる人口の大瀑布が涼味を醸した。瀧の裏には小径が設けられ、「浦見(裏見)の瀧」の趣向とした。〈安全低空飛行機〉と呼ばれる、高さ約二四㍍の鉄塔にワイヤーで吊られた六台の飛行機模型(六人乗り)がモーターで回転し、高さ約八㍍・時速約三〇㍍で滑空する遊具が呼び物だった。園内には「即売店又は広告的陳列店」や和洋の料理店、二百五十人収用の演芸場などがあり、時に余興として「パラダイス歌舞劇」という少女歌舞劇を上演、活動写真(映画)も上映されたりした。開園当初の入場料は大人十五銭、小児十銭。第一次世界大戦後の不況等により三年も満たないうちに閉園した。
参考:『日出新聞』(大正11年7月7日夕刊/ 同年7月10日朝刊)
『大阪朝日新聞京都附録』(大正11年7月11日)
『地図で読む 京都・岡崎年代史』(2013年増補改訂版)
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