1922年(大正11)8月7日
八月七日 月曜日 晴 起床六時 就眠十時
母上、お身体すっかりよろしくなる。明日から堺の方へ少しの間行くことになる。
海を見られる事に異常な喜びを持って私等は荷物ごしらえをなす。
1922年(大正11)8月8日
八月八日 火曜日 晴 起床五時 就眠十時半
私等は二時間の汽車や電車の歩みに焦ママたしさ〔苛立たしさ/焦ったさ〕を感じて大自然の海原憧憬の境、なつかしの海の見たさにいらいらして、やっと浜寺に着いたのは午前の九時半頃であった。
長い松原の砂の上をさくさくと踏みながら一歩一歩と海の方に近づいて行く事に嬉しさを一杯にして、誰が一等先に海を見つけるかと競い合ったりする。私等はそれ程海になつかしさを感じているのであった。
立派に設備された浴場には多くの人の群れが、浪の音にまじって騒音を立てていた。
泳げない私等はぢゃぼぢゃぼと、それでも泳ぎの真似をしている。
浜寺の食堂で昼食をすまして、母上と四人ぶらぶらと自由にあちらを見こちらを見して、一時近く電車にて堺の大浜へ向う。
ここでも私等はお願いして海に入り、母上の〝初めてだからおなかをこわすと悪いから早く上っていらっしゃい〟とおっしゃるのにもう少しもう少しと浪とたわむれていた。潮湯に入ってすっかりいい気持ちになって楼上でつまらない喜劇を見る。
夜、堺の納涼博覧会に行く。
立派な水族館がある。かつてこの水族館へ来た時、〝たこ踊見たね〟って弟等と話しながら入る。珍しい魚、私のよく目にふれる魚、海の生物がみな美しい水のなかで泳いでいる。
海豹アザラシまでが岩の上にねころんでいる。大きな鯨の骨を見る。体重九千何百貫[一貫=三・七五㌕]。大きい肋骨や顎骨に肝をつぶす。
落語、活動写真、芝居などある。
浜寺 大阪府堺市から高石市にかけての臨海地。古来、白砂青松の景勝地として名高く、1873年(明治6)には海浜一帯が、近代最初期の公園の一つとして府立の浜寺公園となった。97年の南海鉄道(現 南海本線)開通、阪奈電気鉄道(現 JR 阪奈線)の支線設置など交通機関が整備されたことにより、夏は海水浴の行楽地として、京阪神から多くの人が訪れた。1922年(大正11)8月15日付『大阪毎日新聞』では、「浜寺へ卅七[37]万人/驚くべき一箇月間の人出/海水浴場開設十七年間の新レコード/民衆娯楽場の機能を十二分に発揮す」との見出しで、7月11日の海開きから8月13日までの来場者総数を報じている。昨年同期に比べ、8万5千人以上の人出となり、一日の来場者数では、8月1日火曜が最大で、約2万5千7百人が訪れた。浜寺海水浴場の開設は大阪毎日新聞が主催した。
堺の大浜 堺市の大浜公園は、堺の沿岸に幕末築かれた砲台跡地を利用して、1879年(明治12)市営公園として開園した。一帯の海は〈茅渟の海〉と称され、対岸に淡路島を望む景勝地。また海水浴地として栄え、明治期から、二層三層の楼を構えた料理旅館が海岸線に軒を連ねていた。1903年、大浜公園が第五回内国勧業博覧会の堺会場となり、附属水族館が建設され、館外には池水庭園も造成された。博覧会終了後、水族館は払い下げられ堺市の経営となる。明治末、阪堺電気軌道が公園近隣の開発事業に進出し、12年(明治45)、大浜支線が開通。終点の大浜海岸駅には、海水を沸かした大浴場を備えた大浜〈潮湯〉が13年(大正2)1月に開業する。潮湯の建物は、辰野片岡建築事務所(05年、辰野金吾・片岡安が共同開設)が設計したハーフティンバー様式(北西ヨーロッパに見られる真壁木造建築)の広壮なロッジで、大浴場を始め、劇場や食堂、ビリヤード場などを併設した大衆娯楽施設として行楽客で賑わった。大正期をかけて大浜公園は、浜寺と比肩する観光地に成長した。
正子家族も潮湯で遊んだのち、海岸の料理旅館に宿泊したことが、「朝の大浜は又趣がある」(8月9日)と記すところから読み取れる。
水族館 前述(大浜公園)の附属水族館(堺市立水族館)。木造二階建ての洋風建築で、一階が養魚槽を設けた展示室、階上を休憩所とした。設計は東京帝国大学の動物学者 飯島魁(1861-1921)、文部省営繕の建築技師 久留正道(1855-1914)。館内に29槽設置された養魚槽は、水族館顧問も任された飯島の考案、土木技師 山崎鉉次郎(1862-1917)の技術指導により、「魚族生活の真景を示すの趣向」(井上熊次郎 編『第五回内国勧業博覧会案内記』考文社、03年)が凝らされた。収集された水生生物は、欧米の近代水族館を参考に、「美観的、学術的、教育的模範とする様にとの主意」(堺史談会 編『堺水族館記』同会編輯局、03年)をもって、飼育・観察・展示がなされ、本邦初の本格的水族館の嚆矢とされた。
「大阪市及び堺市」部分(『近畿地方パノラマ地図』金尾文淵堂、1922年)
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