昨日、京都国立近代美術館へ鏑木清方展を見に出かけた。
まさかこの絵をこのタイミングで見る機会が巡ってくるとは思ってもいなかった。その絵とは「ためさるゝ日」である。
井上正子日記に文展を見に行った日のことが書かれている。年次は大正7年、1918年。
十一月三十日 土曜日 天気 晴 温度[空白]度起床六時半 就眠九時
午後和子さんと文展[第二勧業館]へ行き、美しく赤緑黄と巧に画かれた絵画を見て来た。玉舎さん[同じクラスの級友]のお父さん[玉舎春 輝(1880-1947)]がお書きになった《収穫》と云うのも見た。帰りに沢山沢山絵葉書を買った。
文展で一番善かったのは「ためさるゝ日」と云う清方さん[鏑木清方]のだった。
松園さん[上村松園(1875-1949)]の《焔》もよかったが玉葉さん[栗原玉葉(1883-1922)]や成園さん[島 成園(1892-1970)]や千種女氏[木谷千種(1895-1947)]のも美しかった。
([]は註釈)
井上正子は1918年(大正7)11月30日、岡崎の第二勧業館(現 みやこメッセ)で開催された第12回文部省美術展覧会に出展された「ためさるゝ日」を目の当たりにしている。そして「文展で一番善かった」と書き記している。
この日の正子は失意の底にあった。2日前の11月28日、愛してやまない祖父 桑門志道をスペイン風邪で喪ったのである。
十一月二十八日 木曜日 天気 晴 温度[空白]度 起床六時 就眠九時過
ああ今日はなんと云う悲しい日だろう……私の一生の思い出となる日である。
午後何時になく早く帰宅した。台所へ行くと女中が独りしょぼんと座っていて、私の顔を見ると沈んだ色をして大変なことが出来ました。びっくりなさいますなと前置して広島の祖父様がおかくれなさいましからお母様は早々今朝お立ちになりましたと申しました。私はほんとに驚いてほんととは思われなかった。
いこの間、京都へ来られて私とピンポンをしたりして遊んだのに、と思うと一層悲みを増すのだった。そしてお茶のおけいこに行くのも忘れて泣いて泣いて泣き尽しました。
夜父にほんとですかと聞きますと誰がそんなうそをとおっしゃった。私はもうもう悲しくてたまりませんでした。
明日は父も弟も広島へ行かれるので上の親類へ泊るので夜晩く行った。
正子日記が、スパニッシュ・インフルエンザに関わる一級の史料として注目されたことは、このブログですでに記した。(井上正子日記のこと)
だが、一級の史料とは、どのような内容を指しているのだろう。この2年半のCOVID-19のパンデミックを記録した何が、100年後の一級史料となるのだろう。
文展の会場を逍遥した正子の胸中では、つねに祖父のことが想われていたに違いない。
そうした心持ちで見た「ためさるゝ日」、わたしは鏑木清方の描いた「ためさるゝ日」を、史料を見る目から遠く離れて、この目で見たいと思うようになっていた。
ところが調べてみると、絵の所在が知れないのである。
いや、もともとこの絵は双幅で描かれ、右幅のみが鏑木清方記念美術館に所蔵され、左幅は所在が不明となっていることが知れた。華やかな衣装をまとって踏絵を待つ遊女達の描かれた右幅のほうは同美術館のホームページで鮮明な画像で確認できたのだが、文展に出展されたという左幅の方は図録など印刷物から転写された不鮮明なものばかりだった。
図書館で借りてきた30年以上前に刊行された美術全集でようやく左幅の画題が確認できたような具合だった。
日記編集のかたわら、「ためさるゝ日」についても、調べなければならないと図書館へ通った。実をいうと、刊行する井上正子日記のタイトルを『ためさるる日』としようと考えていたからである。
「ためさるゝ日」は、長崎の遊女が踏絵をするところを画題にした。作者の鏑木清方は、「女の足が銅板に触るる冷たい感じを現そうと二尺五寸(約七五・八㌢)に六尺四寸(約一九四㌢)の枠張り(額装)」(『大阪毎日新聞』大正七年一〇月一〇日朝刊)の絵にしたと述べている。
この長崎に行われた「絵踏」の行事は、禁制のキリスト教信者(キリシタン)を摘発するために、キリストやマリアの聖像を踏ませて発見する無慈悲な手口が、次第にキリスト教棄教の強要、あるいはその証としての儀式となり、寛永以来(一六二〇年代)、長崎では年中行事のようになって、江戸時代を通じて二百年にもわたって行われた。清方は「自作自解」のなかで、「ためさるゝ日」の画題を次のように語った。
私はまた私らしく、もっと後期の、と云っても安政よりは三四十年も遡ったあたりの、丸山の遊女の絵踏に作欲を誘われた。もうその頃ではこの行事も初期のような緊迫した空気はなく、正月八日に行われる丸山の絵踏は、紋日、物日のようになって、この式に臨む遊女達は粧いを凝らし、綺羅を飾って練り込む。なじみの客が競って贈る衣装には「絵踏衣装」の名で呼ばれたという。
鏑木清方「自作自解」『清方画集』(美術出版社、一九五七年)初出
(『鏑木清方記念美術館 収蔵品図録─作品編─』鎌倉市鏑木清方記念美術館、二〇〇一年)
「ためさるゝ日」はもともとは双幅で描かれたものだった。華やかな衣装をまとって踏絵を待つ遊女達の描かれた右幅と、遊女が素足を浮かせて聖像を踏もうと「銅板に触るる冷たい感じ」を捉えた左幅とからなっていた。だが文展に出品されたのは左幅のみだった。「両幅とも出来したが左幅の絵踏の女だけで十分私の意を悉していますから右幅は見合せた」(同前『大阪毎日新聞』)のだという。そして現在、右幅のみが鏑木清方記念美術館に所蔵され、左幅は所在が不明となっている。
画集に掲載された「ためさるゝ日」双幅の図版をつぶさに見ると、展示を見合わせた右幅は、形骸化した絵踏行事の、異教の聖像を踏むことに何らためらいのなさそうな着飾った二人の遊女が、正月の寒さの中でつまらなさそうに順番を待っているというという図に見える。かたや左幅は、聖母子の刻まれた銅板をじっと見おろろし、右足をわずかに浮かせたままなにかに思い惑っている。それは単に素足に冷たい銅板が触れる感触をヒッと思っているだけなのかもしれないし、あるいはいたいけな赤子イエスを抱く母の姿を自身の境遇と重ねたのか(遊女には里子に出された乳飲み子がいるという想像)。長崎は、かつて豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、フランシスコ会宣教師六人と日本人信徒二十人が処刑された地でもある。酷たらしい過去の伝習を、きらびやかに着飾った晴れの日の行事としていることへの疑いが心に萌したのかもしれない。もちろん彼女が隠れキリシタンの里の出身で、密かにカソリック教徒である可能性も拭いきれない。
正子日記の解説の中で、わたしはこのように調べたことを記した。絵の解説は図書館で借りてきた鏑木清方の画集を眺めながらであった。絵が行方知れずだと判ったので、「ためさるゝ日」の絵葉書を手に入れたいと思った。正子は「沢山沢山絵葉書を買った」と書いているから、清方さんの絵葉書は買ったに違いない。
わたしの母は、若い時から古本屋や骨董市で古い絵葉書をコレクションしていたから、もしかしてその中にあるかも知れないと、未整理で抽斗一杯につまった絵葉書の束(日本画、洋画の区別はしてあった)を部屋に拡げて作家別に分類を始めた。文展の絵葉書がかなり含まれていると思ったら、文展は二期に別れて開催されていて、文展絵葉書の大半は昭和12年(1937)から始まった新文展のものだった。それでも大正期の文展のものもちらほらと現れる。第11回までのものはモノクロームだが、第12回はカラーと白黒の2種類あることが整理から判明した。まず日記でも触れられた上村松園の「焔」が現れた。正子はこの絵にも感心している。余談だが、昨年京セラ美術館で開催された上村松園展に「焔」が出品されると知って、見に出かけたら、数日違いで展示替えで見ることが叶わなかった。
「焔」が現れて、さらに手に持った絵葉書の束を繰っていくと、すでに知っている構図の「ためさるゝ日」が姿を現した。
気魄のある「焔」に比べて、清楚である。
「ためさるゝ日」とは、いったい何がためされているのか。正子はこの絵に何を感知したのだろう。正子は祖父の死の直後、ただこの絵に悲しみだけを投影したのではないと思う。
ためさるる日とは、その日その日と時を過ぎゆく中で、その日もきっと何かにためされながら、人は一生を送っているのだと教えているのではないか。
小さな絵葉書を手に、しばらく思いに耽ってしまった。
「没後50年 鏑木清方展」が今年3月に東京竹橋の国立近代美術館で開催されることは、「ためさるゝ日」を追うようになってほどなく知った。しかし、その絵は展示されないのだろうとあきらめていた。
ところが今年になって、「ためさるゝ日」が30年ぶりに展示されることを報じた新聞を妻が見つけて教えてくれた(『毎日新聞』3月2日朝刊)。
すでに正子日記のタイトルを『ためさるる日』と考えていたので慌てた。清方展が京都に巡回する5月27日までに日記を刊行しなければ、と。その願いは程なく潰えるのだが。
しかし、良い。「ためさるゝ日」が30年ぶりに展示される。正子がそれを目撃したと同じ、岡崎の場所で展覧されるのだ。
昨日、午後2時に編集者のI君と、京都国立近代美術館の入口に待ち合わせして、チケットを買い、3階の清方展の初日に足を踏み入れた。思ったより観客は少なく、ゆっくりと鑑賞ができる。
鏑木清方(1878-1972) 東京都神田生れ。父は戯作者で、『東京日日新聞』『やまと新聞』の創刊者條野採菊。絵師 水野年方の門に入り、一七歳の頃から新聞挿絵を描いて、紅葉、鏡花らに親しんだ。一九〇一年、大野静方、山中古洞らと烏合会を結成、本格的に日本画制作に乗り出す。〇二年《一様女史の墓》を発表。文展時代を経て、第一回帝展から審査員となる。《築地明石町》(二七年)、《三遊亭円朝像》(三〇年)、《一葉》(三〇年)など、作品の背景には文芸があり、明治の江戸下町の情趣を漂わせる。
日記に記した鏑木清方の註釈である。17歳の頃から新聞挿絵を描いていたことがうなづける、初期の作品にはものごとを正確に伝える写実性が、絵の隅々まで行き届いていた。たとえそれが幻想を描いていても、清方の文法が読み取ることができるように思えた。
それが、大正期に入ると、輪郭が消えていく。それは描き方においてもだった。日本画の朦朧体の影響もあるのかも知れないが、清方自身、身につけていた絵画の文法を破ろうとしていたのかも知れない。
「ためさるゝ日」の制作過程を語った新聞記事がある。
女の足が銅板に触るる冷たい感じを現そうと二尺五寸(約七五・八㌢)に六尺四寸(約一九四㌢)の枠張り(額装)だが両幅とも出来したが左幅の絵踏の女だけで十分私の意を悉していますから右幅は見合せた。
『大阪毎日新聞』大正7年10月10日朝刊
「銅板に触るる冷たい感じ」という、感覚を絵の中にとらえようとする気魄が、松園の「焔」とは異なる意気込みで、「ためさるゝ日」には描かれているように思えた。
二尺五寸(約75.8㌢)に六尺四寸(約194㌢)という絵の大きさも、こんかい初めて実感できた。これは絵葉書では感じられないものだった。
しばらく絵の前に佇み、ふと絵の中の遊女の身長と、12歳の正子の身長が同じくらいだったのではないかと思えるのだった。
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