❖ 阿弥陀如来立像 一躯
鎌倉時代
木造(金泥塗り・截金文様・盛上げ彩色・玉眼)
像高六六・四㎝
撮影:齋藤 望
〈形状〉
螺髪旋毛状(右旋)。肉髻珠(木製)・白毫相(水晶製)をあらわす。耳朶部環状。三道をあらわす。内衣・覆肩衣・衲衣・裙を着ける。内衣は腹前に少しあらわれる。覆肩衣は右肩から右脇腹部で衲衣にたくし込んでたるみを作り、右腕をおおう。衲衣は左肩をおおい、右肩に少し懸かって右腋を通り、腹前にまわって上端を折り返して末端を左肩に懸ける。裙は両脚の間で右前に打ち合わせる。左手は肘を軽く曲げ垂下して掌を前に向け、右手は屈臂して胸前で掌を前に向けて立て、いずれも第一・二指を捻ずる(来迎印)。両足先を軽く開き、両足を揃えて立つ。
〈品質構造〉
用材の樹種不明。割矧ぎ造りか。金泥塗り、截金文様、盛上げ彩色。玉眼嵌入。
像表面の金泥のため詳細は不明だが、おおよそ次のように推測される。頭部は耳前を縦に通る線で前後二材とし、割首とするかとみられる。体部は、前後に二材を矧ぐかとみられ、像内に内刳を施す。左手は肩から外側に別材を寄せて袖部内側に別材を矧ぎ、手首先部を挿込む。右手は肩で別材を寄せ、袖部内側と外側、および外側前方に別材を矧ぎ、前膊部を差し込む。両足先部別材。
像表面は螺髪群青塗り、その他は錆漆下地に金泥塗りとする。着衣に截金文様、盛上げ彩色を置く。各部の文様の種類は次のとおり。衲衣の表は田相部雷文入り斜格子文(截金)、条葉部及び縁部唐草文(盛上げ彩色)、界線は内から太線一条・細線二条、周縁部細線二条(截金)。同裏は内区浅葉繋ぎ文(截金)に蓮唐草文(盛上げ彩色)、外区雷文繋ぎ文(盛上げ彩色)。覆肩衣表は内区四ッ菱入り七宝繋ぎ文(截金)に花丸文(盛上げ彩色)、外区蓮唐草文(盛上げ彩色)。同裏は内区筋入り斜格子文(截金)に蓮唐草文(盛上げ彩色)、外区唐草文(盛り上げ彩色)。内衣表は唐草か(盛上げ彩色)。裙の表は内区卍繋ぎ文(截金)、外区蓮唐草文(盛上げ彩色)とする。
撮影:齋藤 望
〈保存状態〉
肉髻珠、両耳朶、両手首先部、両足先部、両足枘、以上後補。
光背(光条付き輪光背。木製、漆箔)、台座(蓮華座。木製、漆箔)、各後補。
法量(単位㎝)
像高 六六・四(二尺一寸九分)
髪際高 六一・七(二尺四分)
頂―顎 一二・三 面長 七・九
面幅 七・七 耳張 九・一
面奥 一〇・〇 胸奥 一〇・二
腹奥 一一・六 肘張 二〇・四
袖裾張 一八・二 裙裾張 一四・六
光背高 七四・七
台座高 六六・〇
〈伝来〉
一、德正寺本尊像。本堂須弥壇上に安置される。『拾遺都名所図会』に「本尊阿弥陀仏〔安阿弥の作、立像二尺余、初ハ四条奈良物町大胆鍛冶が持尊なり、霊告によつてこゝにうつす〕」とある。安阿弥陀仏快慶の作というのは伝承として措くとしても、江戸時代になってから本寺に迎えられたことが窺える。それ以前の伝来は明らかでない。
二、台座下框背面に刻銘がある。
安政六己未年八月廿一日
釈遊現
明治五壬申年八月廿九日
釈妙教
明治八乙亥年十二月十二日
釈遊教
天保十一庚子年十二月十日
釈信教
釈遊巌
明治十八年乙酉二月
寄附藤木萬助
〈備考〉
一、本像は、均整のとれた身にまとう着衣の形勢、自在な動きを見せる衣襞に、鎌倉時代の特色が認められる。手馴れた的確な彫技をみせ、表面は截金と盛り上げ彩色を併用して入念な仕上げをみせる。頭部はややうつむき加減で、低く小ぶりな肉髻、やや鉢が膨らみ髪際中央が下に緩やかなカーブをみせる地髪部、大粒の螺髪、青年を思わせる顔貌、よく整理された衣文の彫法などに特徴がある。鎌倉時代後期、十三世紀後半の制作と推測される。右肩がやや下がっているのは、右足を少し踏み出す来迎印阿弥陀如来立像の身体のわずかな動きに合わせたもので、本像が両足を揃えるのは真宗本尊にふさわしいように足先部を変更したものと推測される。
二、実査 二〇一七年九月一四日。
(齋藤 望)
『德正寺誌』寺宝一覧[第九十九号 阿弥陀如来(安阿弥作)]
齋藤 望(実査報告)
〈解説〉
德正寺には、二躯の阿弥陀如来像が存在する。それぞれ本堂と内仏の本尊として安置され、前者は、德正寺本尊、後者は大谷道場由来の、文明八年(一四七六)、蓮如より下付された内木仏(内仏)として伝来している( P. 34 「德正寺法宝物縁起 ② 阿弥陀如来立像(内仏)」も参照)。
ここではまず、德正寺の本堂本尊・阿弥陀如来立像について、ひと通りの解説を試みたい。
德正寺は、文禄二年(一五九三)、大谷道場四代 祐願の子 祐誓(天文一二年〈一五四三〉-元和八年〈一六二二〉)により、二条猪熊(現二条城二の丸御殿の東側付近)の地に開創。祐誓妻 妙正は浅井長政の妹で、德正寺は長政追善の寺として建てられたと由緒には伝えられている。創建から十年にも満たない、慶長六年(一六〇一)、二条城築城のため、德正寺は退去・替地を命じられ、四条富小路の地に移転し、現在に至るのだが、德正寺が二条猪熊で開創するにあたり、本像が請来した事歴が由緒書の記述から窺える。
二条猪熊に德正寺の寺号を被下置木仏開山前卓等戴キ則当寺御開山御裏二条猪熊ト被成下
今の本尊ハ四条奈良物町住大膽鍛治亦兵衛といふもの浄土宗貞安の檀那也毎夜霊夢を蒙りしゆへ此本尊御供シ当寺江納ム
「德正寺由緒記(-AⅡ)」
ここに名の見える貞安(天文八年〈一五三九〉-元和元年〈一六一五〉)は浄土宗の僧で、織田信長の信任があつく、天正七年(一五七九)、浄土宗と日蓮宗との間で持ちあがった論争(安土宗論)により名声をあげた。同一一年、京都へ移り、浄教寺に寓して教化につとめ、同一五年、本能寺の変(天正一〇年)に倒れた信長・信忠追福のため大雲院を開創した。同院は烏丸西、御池北の二条殿(信忠が自刃した二条御所)の地に建立されたが、三年後の天正一八年、秀吉の命で寺町四条南東に移転。また、浄教寺は同一九年(一五九一)、大雲院の南辺へ移転した。二ヶ寺の移転もあり、同地は現在も貞安前之町と称されている。なお大膽鍛冶亦兵衛が住した四条奈良物町は、貞安前之町に隣接する。
德正寺開基の祐誓と貞安は、戦国の乱世を生き抜いた同時代人であった(貞安が祐誓より四歳年長)。また、四条富小路下ルの德正寺と四条寺町下ルの大雲院・浄教寺は地理的に近接(徳正寺町と貞安前之町の直線距離は二〇〇メートル)。そうした事実を、貞安の檀那大膽鍛冶亦兵衛の許にあったとする阿弥陀如来像の背景に置いて、貞安と祐誓に親交があったと考えることは早計に過ぎるだろうか。由緒の事歴を信じるなら、大膽鍛冶亦兵衛から德正寺本尊は御供されるが、直接の贈答というより、何らかの形で大雲院貞安の介添えを考えたほうが自然だと思える。
本像は、鎌倉時代後期、十三世紀後半の制作と推測されている(齋藤望「実査報告」)。これは德正寺、また大谷道場の創建(文明八年〈一四七六〉)の時代を、さらに二百年ほどさかのぼる。真宗における本尊には、名号・絵像・木像の三種があり、木像は阿弥陀仏の方便法身の尊形を顕して、立像での造形が通例となる。しかし、親鸞は名号本尊(六字名号、十字名号など)を礼拝の対象とし、図画・彫刻をもって本尊とはしなかった。真宗の道場では、ただ名号を記した軸をかけ、その前で法義を聴聞する聞法の場としてあり、長くそのような形態は真宗教団に維持されてきた。しかし、大谷廟堂の寺院化(本願寺の成立)が、覚如(本願寺三世)により進められ、本尊安置の是非が初期真宗の宗門中では問われるようにもなっていた。「宗祖の影像をかたわらへ移して阿弥陀仏像を立てるようにしたが、これには高田門徒の抗議をうけること」(光森正士「総説 阿弥陀仏像」『真宗重宝聚英 第三巻 阿弥陀仏絵像・木像 善光寺如来絵伝』〈同朋舎、一九八九年〉)も生じたりしている。
変遷として、真宗が阿弥陀像を本尊とするのは、南北朝期以降、道場が寺号をもって寺院化する動向にあり、必然的に堂舎には本尊が安置されるようになった。ただ初期真宗教団では、「造像・起塔等は、弥陀の本願にあらざる所行」(覚如「改邪鈔」)と戒められたこともあり、本尊安置にさいし有縁の古像を得、それを依用した。德正寺本尊も開創に際して造像されたのではなく、有縁の古像の依用であったかと思われる。
名号をはじめとする絵像、乃至木像による本尊を、本願寺に帰属する道場・寺院が安置するには、宗主から裏書の発給を受ける必要があった。しかし、德正寺本尊には、その本山下付を示す証書が失われている。とはいえ、先に引いた由緒の記述を裏づけるように、本尊右奥に奉掛する「親鸞聖人御影」には、慶長二年(一五九七)発給の裏書があり、「山城国乙訓□二条/猪熊通德正寺常住物」として、教如から祐誓へ下付された影像であることがわかる。また、本尊左奥の「蓮如上人御影」は、慶長一一年(一六〇六)発給で、「城州乙多喜郡下京四条冨小路德正寺」と同じく裏書に示される。これら裏書から、德正寺が二条猪熊より四条冨小路に移転したことも証明されよう。両絵像を脇におく本尊も、おのずと同時期に德正寺へ迎え入れられたものではないかと推測が立つ。
天明七年(一七八七)刊の『拾遺都名所図会』には、本像について、「安阿弥の作 立像二尺余 初は四條奈良物町大膽鍛冶が持尊なり 霊告によつてこゝにうつす」と紹介している。安阿弥(快慶)作とは、本尊の造像様式が安阿弥様を示すことから、いつしか伝承に加えられたものであろう。いずれにせよ、德正寺がこの地に寺基を構えて四百年余、本阿弥陀如来立像が本堂本尊として長きにわたりここにあったことは間違いないと考えられる。
(釋 源祐)
撮影:齋藤 望
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