TOKUSHOJI since 1476
緒言
徳正寺の由緒を史実に則してひとすじに説明することは困難である。徳正寺にはふたつの起源があるからだ。
ひとつは文明8年(1476)願知がんち草創の大谷道場である。ふたつは文禄2年(1593)、祐誓ゆうせいが開基した徳正寺。成り立ちの違うふたつの来歴が、ひとつのプロットにまとめあげられて今に至る徳正寺の由緒となった。徳正寺の由緒書の成立時期は、おおよそ寛文元年(1661)以降にかかり、本願寺の東西分立が歴然とするなか、大谷派(東)、本願寺派(西)の末寺では、その帰属を巡って正当性を担保する内容の由緒書が、おそらく本山の指導のもとに作成された。
徳正寺では、祐誓といえば徳正寺の五世として名を遺している。その妻は浅井長政の妹、妙正みょうしょう。徳正寺は、祐誓の妻 妙正の祈願により、その兄 長政の菩提所として、長政の法号「徳勝寺殿天英宗清大居士」にちなんで「徳勝寺」と名づけられたのだと由緒書には記されている。由緒をつぶさに読めば、祐誓は徳正寺初世と位置づけても間違いではない。徳正寺が、のち大谷道場を継承した勝久寺しょうきゅうじ(元和年間〈1615-1624〉成立)の由緒を受け継いだため(寛文元年〈1661〉)、徳正寺の来歴には、その前史として大谷道場の由来が盛り込まれることになった。そこに本願寺の東西分立の軋轢が影を落としている。その結果、祐誓は本来徳正寺初世のはずだが、後世の由緒では大谷道場を開創した願知から数えて五代目に収まり、徳正寺五世として今に語られるようになった。
ここに掲載する「洛陽德正寺由緒」(現代語訳)は、上述した起源のことなるふたつの来歴が、それぞれのプロットを継ぎ接ぎするように成立している。よって、史実に則した徳正寺の由緒(通史)というものは、今ここにはない。そもそも由緒には「史実に則す」といった発想はなかった。だからこそ、代々に亘って由緒というものは、その家(寺)を中心とした広がりの中で通用する〝語りもの〟として伝えられてきたのであろう。
他日、徳正寺のこれまでの由緒を尊重しつつ更新し、史料を博捜しながら、より以上に事実と伝承を追求した徳正寺の通史を編纂し、「徳正寺550年史」をもって公刊することを期したい。
辛丑かのとうし(令和3/2021年)4月30日
釋 源祐
「洛陽德正寺由緒」
現代語訳
「洛陽德正寺由緒」
德正寺、一名大谷道勝久寺のこと。
わが寺の歴史を尋ねてみると、むかし越前国に井上筑前守と申す武士が居った。源頼光から数えて八代のちの井上三郎、そのまた末の子孫とのことである。
親鸞聖人が流罪に遇われて、北陸へ御下向になされたころ、祐遠は、聖人の謦咳に接し、本願念仏の教えに帰依するようになった。さらに時代は降ってのことだが、聖人から数えて八代目に法統を受け継がれた蓮如上人が御在世の時、祐遠の末裔は、越前国荒井の領主になっていた。名を井上筑前守と名乗る武門の出身だが、不思議な因縁と言おうか、代々父祖の遺訓を守り、もっぱら他力信心に篤く、親鸞聖人による浄土真宗の教えに背くことなく宗門に帰依することでは、他を寄せつけぬほどの篤信家でもあった。
ところで祖師親鸞聖人の御廟所は、文永(一二六四-一二七五年)から文明年間(一四六九-一四八七)にいたるまで、東山大谷の地に巍然とそびえるがごとくましまして、蓮如上人の頃の教団(本願寺)は繁栄いたし、たいそう賑わっていた。だが、他宗はそれを妬み、ことに比叡山の衆徒の憤りは、ことのほか激しかった。その頃、本願寺が日華門を大谷の地に建立した廉で、山徒の怒りはいよいよ募り、比叡山より四五百程の軍勢となって俄かに押し寄せたのである。時すなわち、文明三年(一四七一)二月上旬(二月一六日)、蓮如上人五十七歳の御時であった。もっとも不意の襲来だったため、防戦はおよばず、上人は親鸞聖人の御真影をお救いするだけで精一杯であり、しばらくのあいだ三井寺の近松に身を隠しておいでだった。比叡山の衆徒は、既に御堂は打ち壊したが、未だ憤懣とどまらず、とうとう御廟所をも破壊せんとした。
筑前守遠中は、そのころ蓮如上人に帰依して、時あたかも教えを請おうと越前から上京し、上人と親しく接していただいていた折でもあった。それ故かくも嘆かわしい事が出来いたし、まして上人の身に危険が生じかねないと、用心を怠らずにしていたところ、案の如く比叡山から御廟を掘りおこそうとする狼藉が度々となくおこった。もとより井上遠仲は腹を括ったもので、身命を投じて打ち勝つまで防戦に尽くした。悪徒が比叡山に退いた後も遠仲は、御廟がこのままでは荒廃しかねないと気がかりでもあり、故郷にも帰らず、所領も教えの重きに替えれば些細なことだと放擲し、ついに剃髪して、蓮如上人から願知との法名を拝号し、京洛に身を落ち着けることになった。これがすなわち德正寺の開基である。
蓮如上人は、さらに願知の信心の深いことに感じ入って、木仏の阿弥陀如来像を授けられ、感状を下付なさった。
その文に曰く、
このたび本願寺の災難では、比叡山の悪徒等により祖師親鸞上人の御遺骨が掘り返されようとするところ、願知は身をもってその才覚を発揮し、御番を務め(御廟所が)移転せずに済んだことについては、私(蓮如)において一生に亘る満足、あなた(願知)においては末代に至る名誉であり、限りのない感心事であった。
その褒美として内木仏を授ける。ありがたく思うとともに、子々孫々まで御廟所の御番を勤めるようになされよ。
文明八年(一四七六)正月十八日 蓮如御在判
願知
右の直書によって大谷の地に一宇を建立し、寺号は勝久寺と名づけられた。願知、了願、願信、祐願、祐誓と五代にわたり寺を相続していたが、法華宗の一乱に際して、大谷の境内地は残らず焼き払われてしまった。だがやがて、 旧跡を整備し、御堂を元どおり再建したのは、四代目祐願の尽力によるものであった。
その後、信長公の一乱(石山合戦)に際し、大谷の御堂は二度にもおよぶ災厄を蒙り退転を余儀なくした。しかも、蓮如上人から授与した本尊並びに御など、難を免れた宝物を深く隠し護ること十八年にも及んだのである。その間、大谷の御廟地は諏訪氏の知行地となり、やがて御畳所の伊阿弥の所領となっていた。
願知から数えて四代目祐願の妻妙祐は、このように境内地が退転してしまったことを嘆いて、時の所司代前田徳善院玄以に進達し、松田勝右衛門、味岡市右衛門を頼りに、荒廃した祖師御廟の境内地を整備し、御廟を建て直した。そうしてようやく祖師の御遺骨を元どおりご奉納できるまでに再興できたのも、そもそもここは文明年間に遡る浄土真宗の根本の聖地であったからであろう。
元来この地は、覚如上人の草創に掛かり、乾元二年(一三〇三年)の院宣、嘉元二年(一三〇四)の文明親王の御朱印によって勅願所と認められている。にもかかわらず御朱印の発給が途絶えてしまったが故、妙祐は深くこれを愁いて、太閤秀吉公へ訴えでたところ、女だてらに願い上げたその心意気に太閤は感じ入り、遂に天正一七年(一五八九)一二月一日付の境内地の御朱印、天正一九年(一五九一)九月一三日付で、寺領安堵の御朱印を頂戴するに至り、御朱印所としての復帰が適えられた。
さて、願知から数えて五代目の祐誓法印の時、教如上人の退隠の折ではあったが、元来は本願寺の御正統を繼ぐべきお方であれば、祐誓も願知から代々の宗門、教如上人からすれば他の法徒とはちがってとくべつ心安くも出来、祐誓もまた心を砕いて教如上人にお仕えしていた。
一勝久寺を改めて「徳勝寺」と号したその由来について、元亀四年(一五七三)、信長公のため自害に及んだ浅井備前守長政公(浅井氏は三条家からの分かれ/大納言正二位)の「徳勝寺殿天英宗清大居士」という法号に因んで寺号を頂戴したものである。その由縁は、勝久寺五代目の祐誓法印の妻は、法名を妙正と号し、長政公の妹君であった。つまり妙正尼は、太閤秀吉公の側室であり、秀頼公の母君となる大宮院殿(淀殿)や、徳川将軍秀忠公側室であり家光公の母君崇源院殿(江)といった方々の伯母君にもあたる。また六代目の祐應法橋は浅井右京常政の息子であり、長政公にとっては甥になるもので、右の由緒からも、長政公の菩提所として「勝久寺」をあらため「徳勝寺」と号する由縁となっている。
その頃の本山から発する御免状などには、宛所を「徳勝寺」としていたが、ほどなく「勝」を「正」の字に改めたものと見える。二条猪熊の場所に八十間四方の寺地を下付せられ、彼地に寺を移転するに際して、まず書院だけが建てられた。この書院では、東照権現家康公と教如上人とのご面談が行われた。時に家康公は内府様(内大臣)、教如上人は新門様と呼ばれていた御時分のことである。ところが、慶長六年(一六〇一)八月一六日付で二条城築城の予定地に縄が張られ、その敷地内に当寺も含まれることになった。慶長七年(一六〇二)、二条城造営の御用地並びに知恩院御再興により、早く寺を移転するように御達しもあった。所司代板倉伊賀守勝重から替え地の下地についての直書(板倉勝重自筆書状)が当寺には伝わっている。その書状の記すところでは、
きっと強いて申し入れ致しますが、先日、(破却が)決まった家屋の解体が未執行である由、知恩院より訴えを寄越しています。早々に仏堂庫裡をお建てになっておいでなら、お取り壊ししても差し支えないかと存じます。屋敷替えの件につきましては、どこであってもお渡し致します。何卒よろしくお願い申し上げます。恐々謹言
卯月(四月)二十九日 板蔵(倉)伊賀守
勝重在判
大谷道場
右の通り、德正寺の寺地は骨屋町に与えられ、また大谷御廟地は祇園東の今小路に替え地をいただいたのだが、御廟地も寺地もともに狭くて不便なため、事情を申し出た上、德正寺は富小路四条に南北五十八間、東西四十五間半の土地を拝領することが叶って、大谷道場の旧御堂が移築されることになった。そうして整備された仏堂庫裡は、台所に至るまで、ことごとく獅子口作が用いられていた。また德正寺が造営されたことによって、周囲に人家が立ち並び、現在では町名に徳正寺町と寺号が冠せられている。
御廟(大谷道場)の方は、今小路の替え地を断った上、鳥部野に土地を拝領し、親鸞聖人の墓所をその地へ移転し、德正寺祐誓の妹の聟、善了を留守居に据えることになった。元和元年(一六一五)七月二七日付の東照宮の御墨印も頂戴したのだが、事情があって現在は、西本願寺に差し出されたままになっている。東西本願寺の分立に際して、祐誓は教如上人に仕えて常に随従し、信長公の一乱の時も身命を惜しまず御用を相勤めた。その時の御直状が德正寺に数通伝わるのも、かかる御昵懇の関係があってのことだ。
教如上人のあと、東泰院(宣如)様が本願寺住職を御相続するにあたり、違乱が生じた。この時、祐誓は山城国にある衆僧の一味連判状を作成し、関東路次に在住する門徒僧俗衆に道中の安堵を頼み願った、粟津大進よりの書状を携帯の上、関東へと罷り詣でた。このとき祐誓は、晴着として縮緬の御衣、金襴の輪袈裟、并びに金中啓(絵・狩野山楽)を拝領し、共に現在までこれを所持している。また、東泰院様の御母君、妙玄院様の御頼み状、并に御礼状なども数通が遺されている。德正寺住職の祐誓法印が、関東へ罷り詣でたことにより、万事首尾よく心残りもなく御用が務まったのは、祐誓がこれ浅井家との縁故が格別深いという事情も働いていた。かくして春日局(福)の執り計らいにより、東泰院宣如様の本願寺代々住職御相続が治定した。祐誓は、将軍秀忠公に謁見(お目見え)を仰せつかい、将軍手づから御扇子を拝領いたし、その扇子は今も当寺に伝来する。
元禄一四年(一七〇一)八月七日、より来信あり、その写し。
一昨日にお話を聞かせて頂きました。大谷道場の宝物類のこと、ただいま御堂までご持参いただき、たいそうなことでした。私(噫慶)は御所に居りますので、御堂の当番から、奥(大谷家)へお通りあって出向くようにしてください。この通りの次第でございます。
八月七日 御所より 噫慶
德正寺殿
同年九月一七日、噫慶から、先だって御門主に御上覧に入れた大谷宝物の内、親鸞聖人御名号、并に太閤秀吉公の大谷道場の御朱印状などを、祖廟・大谷御坊再興の機でもあり、德正寺住職の専修院こと祐意が御本山へ持参し差しだした。
一 御当家(勝久寺)にあった、大谷道場宛の御墨印について、鳥部野に西本願寺准如上人がお越しになった時、ご覧になりたいとご所望があって、お貸ししたのだが、それより再びお返しになられることはなかった。家老川越織部よりの書状が今猶当寺に保管されている。
一 元禄一六年(一七〇三)三月二三日、大谷祖廟(或は本廟)御定番役を仰せつかり、同年三月二五日、ハセキにて御礼を被る。
一 宝永五年(一七〇八)七月二一日をもって、御門主の思し召しにより、御一家の御取り立てるとの辞令があった。大谷御用の勤務も、これまでの通り相勤められるようにと命じられた。
粟津庄兵衛
一 正徳二年(一七一二)一二月二日、加藤越中守の一周忌法要の廟前での勤行を德正寺が仰せあずかったことで、翌三日御本坊から御書附を頂戴したのが右、その写しである。
覚
大谷での御用勤務は、内外共に德正寺にお任せすることに相成っている。助番役を仰せつかっていた德正寺住持祐恵が逝去したにつき、今度も同役は德正寺に引き継いでいただきたかったのだが、祐誓(清)が自坊德正寺の住持職を相勤めて、大谷の御用も休むことなく勤務するのは難しくなり、祐誓(清)には御暇を取らせるようにした。故、御堂衆へ輪番を依頼したのだが、それについて、大谷でのお勤めに際しては德正寺に御伺いをたてていただきたい。但し、内陣の式作法、称名方、并に収骨のお勤めは、当番の御堂衆が執り行い、もし德正寺が参合する場合は以前の通り、収骨等の儀式は相勤めることになっている。 辰年十二月
右書附をお渡しになった際、家老衆より来た添状の写し。この通り仰せのことなので、その心づもりでおられることが大切です。そのことについて覚書を遺しておきます。以上。
十二月三日 粟津庄兵衛
松尾左近
冨井主水
德正寺殿
一 大谷御坊の毎年正月には鏡餅二枚、毎年報恩講には御花束を御頂戴するように仰せつかっている。
一 大谷本廟にて御開山親鸞聖人の四百五十回忌には、絵付きの供笥を二対拝領。上田織部からの手紙が有る。
一 元文四未年(一七三九)一二月一五日、大谷の煤払いの御用を仰せつかり、以後、当寺が相勤めるように、下間治部卿より言い渡される。
一 宝暦一一辛巳年(一七六一)九月、大谷に於いての法会に際し、御仏供、御備えの御用を仰せつかった。
粟津家蔵由緒書写
愛山幽香子
蘭宇
今朝もお使いくださり、さてさてまたなによりの御清物まで御恵贈くだすってかたじけなく存じます。
御由緒は別紙三冊差し上げましたので、どうぞ御受け取りくださいませ。
早々頓首
十一日
この間もわざわざお使いくださったにもかかわらず、来客中にてなんやかやと引き延ばしていただくことになり申し訳ありませんでした。詳しくはお会いした上にて、何卒よろしくお願い申し上げます。
德正寺様 粟津大進